網点(ハーフトーン)というものがあります。弊社のような印刷に携わっている会社やそこで働く人にはお馴染みのモノですが(まさか弊社内に知らない人はいない……はず)、そうでない人にはさっぱり馴染みのないモノかと思います。
「網点」とは、「紙の印刷物等で色の濃淡を表現するために使用するとても小さな点」のことです。
網点による印刷では、「紙面上に色を付けるか、付けないか」の二択しかありません。濃淡を再現するためには、階調の連続したグラデーションではなく、一定面積内の網点の大小や間隔の差で再現します。
つまり、パッと見で「グレイ(灰色)」に見えている部分も、拡大してみると、少し隙間を空けつつ小さな黒い点が集まっている、ということなのです。
※網点についての説明は、「網点(フリー百科事典 ウィキペディア日本語版)」がわかりやすいので、興味のある方はそちらも併せてお読みください。
今月も前置きが長くなりました。マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。
本日は“世の中は白と黒だけではなくて、グレイゾーンが存在するものだけど、グレイは結局のところ少ないだけで黒ですよね”という小話です。
ここからが本題です。
白か黒か、世の中には「やっていいこと」と「やってはいけないこと」、基本的にはこの2つしか存在しません。でも、実際には、「やっていいことなのかいけないことなのか判断に迷う=グレイ」ということが実に多く存在します。
どんな法律でも、条令でも、就業規則でも、個人間の約束事でも、1から100まで、ありとあらゆるケースを想定して、「こういう場合はこうすること」or「こういう場合にはこれをやってはいけない」と定めることは不可能です。
そのため、解釈次第では「やっていい」ととらえることも「やってはいけない」ととらえることもできてしまう状況が発生します。
そんな時、どうしますか?
著作権の侵害になるか/ならないか、労働基準法の違反になるか/ならないか、就業規則に違反するのか/しないのか……etc
「やってはいけないこと」として明文化されてはいないから、それはやってもいいことなんだ、とする人がいます。
「やっていいこと」として明文化されてはいないから、それはやらないほうがいいことなんだ、とする人もいます。
難しいですね。
最終的には「決定権のある人の判断」に委ねるしかありません。
決定権のある人の判断によって、自分は「白よりのグレイ」だと思っていたことが「黒よりのグレイ」とされたり、グレイどころか「真っ黒」とされてしまったりということも当然起こり得ます。
黒がいくつか集まっている、でもその量が少ない(隙間がある)ため黒には見えない……冒頭の「網点」のことを思い出してください。『パッと見で「グレイ(灰色)」に見えている部分も、拡大してみると小さな黒い点の集合体なのです。』
これは、あくまでも私個人の思うところではありますが、「グレイ」「グレイゾーン」と思われるところとは、突き詰めれば「黒」ということではないでしょうか。
ただ、「黒」の度合いが少ない(小さい)ためにそこまで大きな問題にはならないだけ、ということではないかと。
だから、これはちょっと白ではないかも……と思うことを、「黒ではないのだから白ということにしておけばいい、どうせみんなやっていること」とはせずに、「はっきりと白とは言えないのでやめておこう」とするのが正しい選択ではないでしょうか。
……などと書くと、「世の中はそんなに単純ではない」とか、「キレイごとだけでは生きていけない」とか、「そういうおまえは真っ白に生きているといえるのか」という反論や批判があろうかと思いますし、それはまぁ、その通りだとも思います。
でも、「これくらいはグレイだからやってもいい」という社会よりも「これくらいでもグレイだからやめておこう」という社会の方が持続可能性が高くなると思いませんか?
もちろん、グレイ以前の問題として、それはやっていいことなのか、だめなことなのか、を正しく知っておく必要があることは言うまでもないことです。
黒を黒とせず、自分は白だと思うから(または白か黒か知らないから)といってなんでもありでは社会が成立しません(そのあたりは以前の私のブログ“自由のための多少の不自由さ”にも書いております)。
まとめると、
灰色に見えている部分も、拡大してみると小さな黒い点なのだということを頭の片隅に留めて行動することも、これからの社会(持続可能な社会)にとって必要なことではないか、ということです。
もちろん、法令や規則が時代(実態)に合わなくなっている、ということはありますし、道徳観念も時代と共に変化するので、「白」「黒」と判断する基準は常にアップデートしないといけませんが。
なんとなく「グレイ=許されること」という風潮が強いような気がしますが、本当にそれでよいのだろうか?とみなさまにもこの機会にちょっと考えていただけたらな、と思います。
そんなことを考えている私の脳内Spotifyは、ヘタウマ界の重鎮、TV Personaritiesの“A Picture of Dorian Gray”をリピ再し、ダン・トレイシーがヘロヘロな歌声で“ドリアン・グレイの肖像画を見においでよ” と呼びかけてきます。
“ドリアン・グレイの肖像”といえば、オスカー・ワイルドの小説。
欲のままに生きる美青年ドリアン・グレイと、彼の本当の姿(醜悪な姿)を映す肖像画の中のドリアン・グレイのように、「これくらいはグレイだから(黒かもしれないけど)やってもいいだろ!」と欲のままに生きている自分の姿を映した肖像画(自分自身、あるいは、自分の子どもや部下、後輩、未来の人たち)を見たとき、私たちは何を思うでしょうか?