“我が、まま” で、よい社会。

どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。

当社は8月決算、9月から新期スタートのため、毎年この時期は今期の反省と来期の目標をあれこれ考えるのがデフォルトになっています。

今回は、そんな最中(もなか、じゃないです)に、“よい社会のために必要なことって何だろう?” とあれこれ考えてみた、という小話です。

読み飛ばしてもわかるように先にまとめると、

“よい社会”に必要なのは、互いに「自己主張=“我が、まま”の主張」を言い合い、調整し合うことであり、そのために自分は何ができるかな?と考えた、という話です。


自己主張とワガママをざっくりと定義すると、

  • 自己主張……社会の中で、自分の権利や要求を他人に伝えること
  • ワガママ……社会の中で、他人や周囲のことなど考えずに自分のことだけを考えた言動のこと

だいたいこんなところかと思います。

社内であれこれ計画を立てるということは、立場や部署ごとに異なる意見(お互いの自己主張)を摺り寄せ、落としどころを決めて、ひとつの組織としての計画を立てていく……ということになります。

しかし、自己主張することとワガママの境界線が曖昧で、なんとなく自己主張しにくい、ということもあります。または、個人の特性(大人しい)によって主張できないということもあるかもしれません。

また、似て非なる“愚痴(悪口)”に終始してしまう、なんてこともあります。

例えば、

「Aさんが〇〇してくれない」

「B部署だけいつも××でズルい」

というのは自己主張でもワガママでもなく、単なる愚痴(悪口)です。

愚痴からは先に進めないので気晴らしに漏らす程度に留めるべきですよね。

では、物事を先に進めるために、「Aさんが……」や「B部署だけ……」に代わって、

「わたしは□□したい」

「わたしたちの部署はいつも△△でいたい」

というのは“自己主張”ですか?それとも“ワガママ”ですか?


数年前に大ヒットした某氷系プリンセス映画(の日本語版)の中で、「ありのまま」で生きることはポジティブなこととして歌われていました。それ以外にも、日本にはやたらと“自分らしく、ありのままに生きたい”的な歌が溢れています。

“自分らしく”生きることはいいことだ、自分もそんなふうに生きたい!と、多くの人が思っているからこそ、そういった歌がヒットするのでしょう。

その一方で、空気を読んで周囲から逸脱しない(出る杭にならない)ことが良しとされ、“自分らしく”生きようとしている人が叩かれてしまう(出る杭は打たれる)こともあります。

つまり、「本当はわたしだって“ワガママ”に生きたいけど周りに気を使って我慢しているのに、我慢せずに“ワガママ”に生きている(ように見える)他人は許せない」あるいは、「わたしの“ワガママ”を邪魔する、他人の“ワガママ”は認めない」というのが実際のところではないか、と思うわけです。

では、どうしましょうか?と考えたときに、他人や周囲のことを考えない“ワガママ”ではない、周囲と折り合いをつけた“我が、まま”ならいいのではないか、と思ったわけです。


“我が、まま”で生きるためには、“我”を知ってもらう=自己を主張する必要があります。

主語を「わたし(I)」にして主張する

→様々な主張(立場や考え方)があることがわかる

→互いの主張を調整する

→誰もが“我が、ままに生きられる=よい社会”になっていく

という感じ?

ただ、「主張の調整」は単純に多数決(数の正義)や今までがそうだったから(慣習の正義)といった理由だけで落としどころを決めるのではなく、みんなができる限り“我が、まま”に生きられるような落としどころはどこか?という基準で探っていかないとダメですよね。

そうしないと、結局「特定のだれかがいつも我慢している」状態(大体において弱者が我慢することになります)になってしまいます。それは“良い社会”ではないです。

“良い社会”というとイメージしにくいかもですが、「社会=自分が属している会社、学校、地域、友人グループ、サークル、家族など」と考えたらイメージしやすいのではないかと思います。

「みんな同じ」わけではないから主張しあい、認めあい、お互いの利害を調整し、100%ではないかもしれないけど、みんなが75%くらいは“我が、まま”で生きられる、そんな社会を目指したい、そのために微力ながらも動いていたい、と思う今日この頃です。

自分のちょっとした主張(我が、まま)は、もしかしたら社会を動かす力になるかもしれません。

自分のちょっとした主張(我が、まま)は、古い価値観を壊し、新しい価値を創造するキッカケになるかもしれません。

なんて。

なんか、わりと大切なことを言っている気がしてきました。

ここ、テストに出ますよ、きっと(笑)


そんな私の脳内では、Let It G……ではなく、Predawnの“Sigh”のやさしく、少し悲し気なピアノの旋律と儚げな歌声が静かに鳴り響き続けております。

過去と折り合いをつけ、“これから”をもっとよくしていけたらいいな、と思うのでした。

さて、来期からはどうなっていくでしょうか。

とりあえず、今は少し穏やかに……

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