喜怒哀楽、あるいは行動指針的な。

びを他の誰かと分かち合う……自分が嬉しい(シアワセ)と思うような事があったら、他の誰か(家族や友人、または不特定多数の人)とその喜びをシェアしたくなるのが人のサガです。SNSでも(企業公式アカウントでも)「こんないいことがあった!」「こんな楽しいことをした!」といった投稿が目につきますし、それ自体はいたってノーマルな行為です。

喜びをシェアされた方もみな同じように喜びを感じる……のであれば良いのですが、必ずしもそうならないのが世の常人の常。何気ない喜びのシェアが、イヤミや自慢と取られてしまい、反感や批判の的になる=「怒」のターゲットになってしまう、なんてこともよくあります。

残念ながら、これはどうすることもできません(他人の感情はコントロールできません)。

 

どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。

今回は、起伏もいいけど、平坦も大事!という、New Normalな時代にどうやって生きていくのか、自分なりの行動指針?的な小話です。


りの感情のもつエネルギーはかなり強いということは、今さらここで書き立てるまでもないとは思いますが、最近は特に「怒」が(ネットを中心に)悪目立ちしているな、と思いませんか?

▲▲で腹が立つ!とか、●●が許せない!といった「怒」の感情は、時と場合によっては何かを変える原動力にもなるため、必ずしも悪いものとは言い切れませんが、「怒」は他者への攻撃に直結しやすく、また、その人の人間性すら破壊しかねない危険なものでもあります。

そんな危険なものなのに(だからこそ?)、「怒」は誰からも注目されやすい存在であり、誰もがいつも自分の中の「怒」をぶつけるターゲットを探し求めている気がします。そして、誰かの「怒」を焚きつけるような投稿や報道はアクセス数を稼ぎやすいこともあって、本当に(ウンザリするほど)沢山出回っています。

SNSで誰かから漏れ出た「個の怒」に大勢が飛びついて、気付いたら「全体の怒」に変わってしまう、ということはネットの伝播力もあって、昔よりも顕著かつ多発しています(コロナ禍でも顕著ですよね)。  

古代ローマの哲学者セネカ(以前書いた「怠惰な多忙、文化的雪かき」というブログにも登場しました)は著書「怒りについて」の中で、“人は聞いて腹が立つことを安易に本気にし、判断力を行使する前にそれを信じてしまう”欠点があるとし、怒りは“価値判断の誤り”と定義しています。曰く、“何の価値もないことに、膨大な代償を払っている”と。

※上記引用の日本語訳は「2000年前からローマの哲人は知っていた 怒らない方法 編者:ジェイムズ・ロイ、訳者:船山むつみ(2020年 文響社発行)」によるものです。 

とはいえ、ついつい怒ってしまうのも人のサガ。

どうしても怒りが露出してしまいそうになったら……その対象から離れる(物理的に距離を置く)ことが一番ではないかと思います(私もそうしています)。怒りが充満していると感じたらテレビやSNSはしばらく見ない、目の前の相手に怒りを感じはじめたら、いったんその場を離れる(トイレに行ってしっかりと手を洗うのは効果的)…etc

「怒」に巻き込まれないように物理的に距離を置くと冷静になれる一方で、なんとなく自分の中に「哀(悲しい気持ち)」が残ってしまうこともあるのが厄介ではありますが(離れた=逃げた=負けた、という感情が起きたりもします)。 


しみを他の誰かと分かち合う……哀しみの持つ力も大きなものです。一人で抱え込むには重たすぎるために、SNS等で哀しみシェアを行う人も沢山いますし、哀しみから生まれた歌や絵、小説やお芝居等の芸術作品は昔から無数にあります。

また、「哀」は「怒」へと展開されやすく、結果として世の中を動かす原動力にもなり得る一方で、何か(時には自分自身)を壊してしまう原因にもなり得ます。

喜びや楽しみではなく、怒りや哀しみが世界を動かしている……と考えると何とも言えない気持ちになりますが、新型コロナウイルス感染拡大防止のためのあれこれも、働き方改革と言われるようなあれこれも、便利グッズの開発も、出発点は誰かの「怒」や「哀」であり、それらを解消するために生まれてきたものが殆ど。

一方で、価値観や善悪の入れ替わりの激しい世の中では、誰かの(あるいはその時代)の「怒」や「哀」を解消するためにとった行動が、別の誰か(あるいは別の時代)の「怒」や「哀」の原因になってしまうかもしれません。

もちろん、そこにとらわれ過ぎてしまうと、何も決められない・何もできないので、独りよがりではなく、全体の最適解となるような落としどころを決めて、結局はその時々で「良いこと」を決意・実行するしかないのかな、と思います。

そんな感じで、当社の来期目標をあれこれ考えつつ、楽しいことってなんだろ?と足りない頭をフル回転させているうちに、なんとなく喜怒哀楽について考えてしまいました。


しい気持ち……できればいつも「喜」か「楽」でいたいと、誰もが思うのではないでしょうか。とはいえ、喜も怒も哀も楽も、全部重要な人間の構成要素なので、どれかに偏るのも、また、喜や怒や哀や楽ばかりの状態(起伏だらけの状態)もよろしくありません

何事もバランスが大事です。

 

喜怒哀楽のような感情の起伏はわかりやすく、取っ付きやすいものですが、それらばかりでは疲れてしまいます。単調なコード弾きだけのイントロや起伏の少ないAメロやBメロあってこそのサビです。

サビだけ良くても、イントロやAメロ、Bメロが良くなければ、それはいい曲ではありません(名曲はイントロやAメロなど、どこを切り取っても素晴らしいものです)。

サビ以外の部分を大事にしていくことが、これからの自分の行動指針というか、仕事や人生に大切なことなのではないか……とかなんとか。

そんなことを考えている私の脳内Spotifyは、UKの御大にしていつまでも瑞々しさを失わない稀有な存在、RIDEの“Clouds of Saint Marie”をリピート再生中です。

この曲では、淡々と歌われるBメロあってこその冴えわたるNa Na Naコーラスリフレイン(サビ)。

こんな曲を聴きながら、MVのようなきれいな空を見上げて、今日も1日平和でした、という日々が1日でも長く続きますように。

※キャッチ画像は数年前に一世を風靡したあの歌のイメージ(フリー素材)です。なんとなく「喜怒哀楽」とPPAPって似てるな……とか、あの曲は平坦なリズムと淡々としたカウベルの音あってこそだよな、と。それだけです。

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