昨年後半くらいから、「Clubhouse(クラブハウス)」という新しいSNSが話題になり、今年に入って日本でも新しいもの好きの人たちを中心に急激に利用者が増えています。
Clubhouseについては沢山のメディアで取り上げられているので詳細については割愛しますが、「音声のみ」「録音・アーカイブ機能なし」「既存会員からの招待制、かつ実名登録」といった特徴があり、イメージ的には「会員制の双方向型ラジオサービス」といった感じですかね(といいつつ、私はやっていないのでよくわかっていませんが…)。
コロナ禍で、直接会って気軽に雑談(討論)することが難しくなったこともヒットの一因として大きいと思いますが、「録音・アーカイブ機能がない※」ことがヒット要因とも言われています。
※録音機能がなく、過去のトークを聞き返すこともできません。しかし、運営会社は安全管理やトラブル対応のためにすべてのトークを録音し、一定期間保存していると言われております。これらの仕組みや運営方針については、プライバシー保護の観点から問題視する声もあります。
どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。
本日は「私たちは少しずつ忘れながら生きているわけだし、電子化されても、少しずつ忘れていくほうがいいのかもしれない」というやや刹那な小話です。
記録を残さない系SNSの需要
先のClubhouse以外にも投稿が保存されない(または短期間で自動的に削除される)サービスが増えています。
視聴者が投げ銭で配信者を支援できることで人気のライブ配信サービス「Showroom」は、ライブ配信(こちらは動画配信)のみで、録画・アーカイブ機能はありません。
Instagramでも、ずっと残るタイムライン投稿よりも、24時間で消えてしまうストーリーズの手軽さが人気を支えているとも言われています。
ここ10数年で、SNSをはじめとしたインターネットを使った各種サービスと、それを支える高速かつ大容量通信網&スマホ(とIoT)が急速に普及し、自分の情報が「データ」としてネット上に蓄積されるようになりました。
そのデータが半永久的に消えない可能性があること・本人の意思に反して他者に知られてしまう可能性があることはプライバシーの侵害にもなり得るため、データの取扱いについて、様々な規制や対策の策定も進められています。
自分自身で容易に、かつ完全に削除または公開(共有)範囲をコントロール(管理)できるのであればいいのですが、ネット上の情報を自分で「完全に」コントロールすることは、思っている以上に難しいことです。
また、自分の意志ではない他者の投稿に自分の情報が含まれることもあり、そんな場合は尚更コントロールが難しくなります(というか、他者の匙加減に委ねるしかなくなります)。
例えば、会社やグループ等のSNSやホームページに公開されている自分の写真や名前などの情報を削除するなら、権限のある人に依頼するしかないですが、必ずしもちゃんと対応してくれるとは限りません。また、公開中に誰かが勝手に複製してしまったら、もはやどうすることもできません。
SNSやブログに大切な思い出の管理を任せてしまうのは、リスクを伴います。
そこで、最初から記録が残らない(または短期間で自動的に削除される)タイプのSNSが登場し、その気軽さ(記録に残らない安心感)で人気がでてきた、ということだと思います。
記録に残らないライブ感は、「その時・その場にいた(サービスにアクセスしていた)人だけが共有できる」ため、「FOMO( Fear Of Missing Out)=情報を逃してしまうことへの恐怖」を煽り、逆に情報にアクセスできた人は、なんとなく「特別」な気になれる、というのもあるかもしれません(特別感&限定感に弱いのが人間です)。
また、サービス提供者(運営側)にとっても、投稿データを残さないことは、データの管理コストを抑えることや、情報漏えい・破損リスクの低減などにも繋がり、メリットがあります。
今後もこういった「記録を残さない」または「短期間で自動削除される」サービスは増えていく気がします(あるいは、それがデフォルトになっていくかもしれません)。
一方で、Facebookには「追悼アカウント」という機能(サービス)があり、亡くなられた方のアカウントや投稿を「思い出」としてSNS内で共有できるように残しておくことができます(親族等が管理するカタチでアカウントや投稿を残せます)。
思い出(投稿などのデータ)の保存方法や共有手段が多様化したからこそ、残したいものは残せて、残したくないものは消えていく(忘れていく)、そこに本人の意思が尊重される(自分で選べる)状態が、徐々にネット上でも確立されつつある、ということは、これからの社会にとってとても重要なことのような気がします。
人には「忘れられる権利」もある
記録を残さないSNSの台頭の背景には、インターネット上のあらゆる情報のうち、残ってほしくない情報はちゃんと削除して(忘れて)もらえる権利が認められてきた、ということもあります。
いわゆる「忘れられる権利」です。
EU(欧州連合)の「EUデータ保護規制案」には「忘れられる権利」が明文化され(後に「消去権」と改められました)、インターネット上の自分に関する個人データを削除させる権利・自分の個人データの拡散を停止させる権利(リンクや複製を削除させる権利)などが規定されています(実際にGoogleに削除を求めた裁判で請求者が勝訴しています)。
日本では、インターネットサービスプロバイダ責任制限法という法があり、その法に従って、サービス提供者は利用者から削除依頼があれば、当該情報の削除に適宜応じることがほとんどである(削除義務はないが、自主的に対応している)ため、あまり表立って問題になることはありませんが、万が一、削除に応じてもらえない場合は裁判となることもあります。
インターネット上のサービスを自らが提供しているわけではなくても、例えば、自社ホームページやブログに、いつまでも退職済みの元社員の写真や名前が掲示されているような場合に、もし当該社員から削除してほしいと依頼されたら、きちんと削除するべきです(情報の鮮度を保つために、依頼が無くても定期的に更新しましょう)。
ブログやSNSなどの過去の投稿まで遡って削除する必要があるかないかについては、個別の判断になりますが、少なくても、元社員が以前書いたブログやSNS投稿を改めて(退職後に)再投稿することや、元社員の写真や名前をSNSやブログに掲載することは避けた方がいいかもしれません(本人退職後も掲載を続けるのであれば、退職時に本人の同意を得ておくとよいでしょう)。
インターネット上に公開していない情報(社内保管データ)であっても、何でもかんでも、ずっと残しておく(いつでも閲覧できる状態にしておく)というのはあまりいいものではありません。
個人データについては、個人情報保護法で、個人情報を使う「目的の達成」のためだけに個人情報を取得し・利用し・必要な期間保管することが認められています。それはつまり、目的達成後は速やかに破棄・削除しなくてはけない(必要がないのに保管していてはいけない)、ということです。
個人データ以外についても、紙の書類であれば物理的に劣化する&保管する場所がなくなるため、一定期間経過後に破棄することが多いですが、電子データは劣化しない&物理的な保管場所にほぼ困らないため、なんでもかんでも取っておく…ということが多いような気がします。
しかし、電子データそのものが劣化しなくてもデータを使えるアプリケーションがなくなる(またはアップデートなどで古いファイル形式が使えなくなる)ことはありますし、電子データの保存領域には限度があります(クラウドだって本当の意味では無制限ではありません)。
クラウドはもちろん、NASやサーバ、外付けHDDなどの保存媒体の種類に関わらず、基本的に保存容量の多さと管理コストは比例します(容量が多くなればコストは高くなります)。
個人情報は当然として、それ以外の保有データについても、定期的に棚卸を行い、不要なものは削除するようにしましょう。
そもそも、そんなことまで残しておく必要があるのか…と考えてみるといいかもしれません。
また、先日の地震発生の際もそうでしたが、災害や事件など「話題性」のある何かが起きた時に、SNSを中心としたネット上に誤情報や嘘(フェイクニュース)を投稿する人が残念ながら一定数おり(善意の人もいますが、悪意やただ目立ちたいだけという人もいます)、うっかり信じてしまった人の善意の拡散によって多くの「別の善良な市民」に広まってしまうことがあります。
「善良な市民」の多くは、情報の出所や正確性を確認することなく、安易に拡散してしまうことが多く、間違いに気付いた時に、当該情報を速やかに削除できないと(削除してもらえないと)、思わぬ二次被害を生む&自分が意図せず加害者になってしまうことにもなりかねません。
もちろん、悪意ある拡散の場合などの「犯人特定」のために削除されないほうがいい、という意見もありますし、検閲を強化しすぎると言論の自由の侵害にもなり得ます。
何事もバランスが大事ですが、なんでもかんでもネット上に残ってしまうよりは、少しずつでも、ネット上から消えていくほうが正常な世の中なような気がします。
…そんなこんなで、私の脳内では、サニーデイサービスの暑苦しくも切なさと青臭さ全開の名曲、“忘れてしまおう”がリピート再生され、曽我部恵一氏のやや粘り気混じりの澄み切った歌声で、“忘れてしまおう” と繰り返し呼びかけています(なぜか公式動画が無いのでリンクは貼りませんが、とてもいい曲なので未聴の方はぜひ検索して聴いてみてください)。
大量の情報を浴びた結果、いろんなことを忘れたくなる…
というのが今の世の中なのかな、なんてちょっと思ったりしているのでした(この歌はシンプルな失恋ソングなので、私の解釈はかなり強引なこじつけですが)。
自分が忘れてしまいたいことを誰かに知られてしまうことや、自分が知らない自分自身についての情報がネットで見つかってしまう…なんてこともあるかもしれません。自分のことを自分以外の誰か(または何か)の方がよく知っている(記憶している)というのは、便利な反面、ちょっと怖いですよね。
生きていく中で、少しずつ忘れてしまう、それが人間ですし、その方がいい(それがちょうどいい)のではないでしょうか?
コメント
[…] 以前、この社員ブログで「忘れられる権利」や記録されないSNSについて書いたことがあります。 […]