“善し悪し”と“好き嫌い”について(または“多様性”)。

物事には「善し悪し」があります。

善し悪しは、道徳観念や、技術的観点など、何らかの「社会通念的なものさし(=大きなものさし)」によってジャッジされます。

一方、物事に対しては「好き嫌い」もあります。

道徳的には正しいことだけど好んでやりたくはない、決して上手な絵ではないけどなぜか好き、など、こちらは、「局所的(またはパーソナル)なものさし(=小さなものさし)」でジャッジされます。

 

どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。

本日は、「お互いに“善し”の範囲内で“好き”にすることが多様性の尊重であり、持続可能な社会なのでは?」ということに、stay safeな社会で思いを馳せる in 2021という、SDGsな小話です。

 


「ブラック企業」はすっかり日本の文化(社会)に浸透してしまいました。

「ブラック企業」は道徳観念、人権、法律、その他多くの「大きなものさし」によって、「悪し」とされるような行為が横行(常態化)している「悪しき企業」。

おそらく、「ブラック企業」が好き!働きたい!なんて思う人はいないと思いますが、「ブラック」と同じような行為を「好きで」やっている人は案外少なくない気がします。

例えば、「残業代はいらないから、自らのスキルアップのために居残りで作業をしたい(→強制されればサービス残業・労基法違反)」とか、「休日でも会社行事や会社から紹介されたボランティア活動に積極的に参加したい(→強制されればパワハラ・労基法違反)」など。

つまり、ブラック企業が「悪し」なのは、それらの行為を「強要」し、本人に選択権がない(本人の意思が尊重されない)からではないかと思います(もちろん、法律などで禁じられている行為の場合は、その行為自体で「悪し」ですが)。

「そうしたい人はそうすればいいし、そうしたくない人はそうしなくていい。」

そんな当たり前のことが当たり前に認められない社会は持続可能な社会ではないです。

とはいえ、社会には様々な「ルール」があり、社会の中で生きていく以上は「好き嫌い」だけで行動することはできません(車をスッ飛ばすのが好きだからといって、交通ルールを無視していいなんてことにはなりません)。

「ルール」の範囲内(=善悪の「善」の範囲内)で好きなことをして、嫌いなことはしなくていい、それを「自分で選択できる」というのが真っ当な社会ではないでしょうか?

そして、「善」の範囲内で(ルールを守り)、かつ、お互いに迷惑をかけない範囲内で好きなようにすることを認め合う、それが、「多様性を認める」ということではないかと。

テレワークする人/オフィスに毎日出社する人、子育てや介護をしながら働いている人/独身の人、飲み会が好きな人/飲み会が嫌いな人、定時ピッタリに退社したい人/いつまでもダラダラと仕事をしたい人、外回りが好きな人/デスクワークが好きな人……

大量生産・大量消費時代なら、「できるだけ均一な人員を多数集めて長時間働く」ことで売上は上がりましたが、今はそんな時代ではありません(昔の人はよく働いた、なんて言われますが、単にそういう時代だっただけ)。

今は「できるだけ多様な価値観を持った少人数で短時間集中して働く」方が効果がでると言われています(←と以前聴講したセミナーの講師も仰っておりました)。

多用な価値観が寄り集まれば、イノベーションも起きるかもしれません。

いろいろな人がいていい、というか、いろいろな人がいたほうがいいのです。

 


一番やってはいけないのは、本来「悪しき行為」を「好き」でやることが「善い」ことだとされ、そうしない人が「悪し」とされてしまうことです(それなのに蔓延しやすいのが悲しいかな現実ですね…)。

自分は遅くまで「自主的に」残って仕事をするのが好き、だからあなたも同じように遅くまで「自主的に」仕事をしなさい、なんていうことはザラにあります(明言していなくても、雰囲気的にそうなっていることも多いです)。

さらに、そういった行為(自主的に遅くまで仕事をする)が、「頑張っている」として評価されがちだったりもします(本来無申請残業は法律や就業規則に反する行為=「悪し」のはずなのに)。

なかなか根深い問題ですね。

また、「大きなものさし」は時代や社会情勢の変化に連動して常に変化するものでもあります。

昨日までの「善し」が今日からは「悪し」とされることは、今回の新型コロナウイルス感染拡大による生活様式の激変からも一目瞭然。

みんなでワイワイ楽しく会食したり、ライブなどで大はしゃぎすることは他人に迷惑をかけない程度であれば精神衛生面でも経済面でも「善し」だったはずが、今の社会情勢下ではどちらかというと「悪し」とされてしまう行為です。

マスクが嫌いだから仕事中でもマスクは着けない、ということも今の状況下では「悪し」とされてしまいます(多くの企業で仕事中のマスク着用が要請されている、または義務化されていると思います)。

好き嫌いの「小さなものさし」で物事をはかる前に、善し悪しの「大きなものさし」で物事を計測することを忘れないようにしないといけないですね。

ただし、例外的に「芸術(アート)」や食べ物(飲み物)などの嗜好については善し悪し(技術的な善し悪しなど)よりも、好き嫌いが優先されても、個人で楽しむ範囲内であれば、なんら問題はないことだと思います(とはいえ、自分の好みを他者に強要するのはよくありません)。

 


少し話が逸れてしまいますが、スキル(テクニック)は「善し悪し」、センスは「好き嫌い」、ともよく言われます。

スキルは社会通念的な“ものさし”によって「善い」または「悪い」とジャッジ可能です(上手・下手)。また、スキルは努力すれば多かれ少なかれ(早かれ遅かれ)向上(改善)するものでもあります。

一方のセンスは、局所的(またはパーソナル)な“ものさし”でジャッジされるものであり、残念ながら努力ではなんともなりません

YouTubeやインスタ、TikTokなどで、一部の“センスのいい人”の投稿をマネする人は星の数ほどいますが、“センスのいい人”というのは、やはりごくごく一部に限られます(努力ではどうしても埋められない溝がそこにはあります)。

スキルとセンスのどちらが上かなんてことではなくて、スキルのある人、センスのある人、どちらもある人、どちらもない人、いろいろな人が共存していることに意味があるのだろうな、なんてことを年明け早々思ったわけです。

毎度のように散らかってきた&長くなっておりますが、只今も、私の脳内で絶賛ループ再生中のThe Pastels “Advice to Graduate”(Silver Jewsのカヴァー)を聴きながら、スキルとセンスについて考えているうちに、何となく多様性に思考が発展していった、という小話でした。

歌や演奏が上手くても(スキルがあっても)まったく心に刺さらない曲がある一方で、歌や演奏が上手くなくてもメチャクチャ刺さる!という曲も沢山あります(パステルズのこの曲はどちらでしょう?)。

もちろん、何が心に刺さりやすいか、なんてことも人それぞれで、みんな違っていていいわけですが。

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