怠惰な多忙、文化的雪かき(そして雪が溶けて春を知る)。

先日とある本を読んでいて、“怠惰な多忙(busy idleness)”という古代ローマの哲学者セネカの言葉を目にしました。

セネカのいう“怠惰な多忙”とは、日々あくせくと働き(または何かを行い)、一見すると充実した毎日を過ごしているようにみえるが、実は何も実っていない(=不毛)というような意味だそうです。

曰く、人生は短いのではなく、その多くを誰もが浪費しているのだ、と。

本来は「だからこそ、日々を無駄にせず懸命に生きなさい」という教えのために使われる言葉だと思いますが、こじらせさん的には、ニヒリズムを感じる言葉だな、と思ってしまいました。

どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。

本日は季節外れですが、“雪かき的な作業とその先”についての小話です。


村上春樹の小説 “ダンス・ダンス・ダンス”(1988年 講談社)の主人公が自分の仕事(フリーライターとして依頼者の要望通りの文章を書くこと)について次のように語っている場面があります。

雪かきと同じだった。
雪が降れば僕はそれを効率的に道端に退かせた。
一片の野心もなければ、一片の希望もなかった。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことだ。
正直に言ってこれは人生の無駄遣いじゃないかと思わないではなかった。

“怠惰な多忙(busy idleness)”という言葉を聞いて(読んで)、真っ先に思い浮かんだのが、このダンス・ダンス・ダンスの一節でした。

この小説の中では、ただこなすだけの作業のことを“雪かき”と表現している箇所がいくつもあり、上記引用とは別の箇所で“文化的雪かき”という名言が登場します。そちらの方が一般的には有名なフレーズですが、とても優れた表現だと思いませんか?


そこに雪が積もる以上、誰かが雪かきをしなければいけません。

しかし、ようやく人や車が通れるようになったところで、また雪が積もってきます。毎日毎日その繰り返し。いつまでも同じ場所で雪かきをし続けなくてはいけません。

当然、生きていくためには雪かきは必要な行為ですし、大事なことではあります。ある一時期限定の雪かきなら仕方ないところもあるのでしょう。

また、効率良く雪かきをするためのコツや知識の習得等、それなりに考えることがあり、毎日同じことをただ繰り返しているだけではない、というのも正しいでしょう

ですが、それがずっと続くのだとしたら、

本当に自分は雪かきをしているだけでいいのだろうか?

と自問することを忘れてはいけないのではないか、と思う今日この頃です。

雪かきに没頭しすぎずに、定期的に少し顔を上げて周りを見たり、周囲の音に耳をそばだてておかないと、そのうち積もる雪で見えるものも見えなく(聞こえるものも聞こえなく)なってしまいますよね

そうなってしまっては、「先」へ進むのが難しくなってしまいます。


“ダンス・ダンス・ダンス”の主人公はある人物(霊体?)から

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。(中略)
それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。

と言われ、度々その言葉を思い出します。

みなさんはどうですか?上手く踊れていますか?

私の場合はどうかというと……

幸か不幸か音楽はまだ鳴り続けていますが、「上手に」どころかまともなステップさえ踏めないので地団駄を踏んでいるよう(または不格好に震えているだけ?)にしか見えていないような気がします。

そもそも、雪かきに追われ、気が付いたら1日が終わっている、というような日々があまりにも多すぎます。

やれやれ。

「踊らなくては」と思いすぎると苦しくなりますが、「踊る」ことを忘れたら、きっと音楽も鳴りやんでしまうのでしょうね、という人生訓的な感じ?の小話でした。

本日はこの辺で。

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