SDGsを語る時にあまり語られない話② ~自由のための多少の不自由さ~

みなさまは将棋のルールをご存知ですか?

因みに私は全く知りません。そんな人のための(主に子ども対象の)動かし方が駒に書かれた初心者用の将棋があります。

子どもたちが、その初心者用将棋で遊んでいたのをぼんやりと眺めていたのですが、形勢不利なほうの子が、ルールを無視して駒を動かしてしまいました(あるあるですね)。

曰く、こんなふうにしか駒を動かせないから勝てないんだ。どんな風に動かしたって自分の自由じゃん、と(あるある再び、ですね)。

当然、相手は怒ってしまい、険悪なムード。

せっかく楽しそうに遊んでいたのに……

どうも、マルワのシャドーサイドあれこれ担当です。

本日のブログはそんな子ども同士の将棋の対局から、“自由であることのメリット=シアワセを享受するためには、多少の不自由さも必要だといっても過言ではないのでは?”と思った、という小話です。

一見SDGsとは無関係そうなのでこの文脈でこれっぽいことが語られることはほとんどないような気がしますが、実は根底では深く関係している、と個人的には思っています。

誰だって「他人が作ったルール=不自由」を強制されたくないものです。

子どもは親の決めたルールに反抗し、社員は会社の決めたルールに不満を持ちます。

だって、それは「自由」ではないから。

そして、自由ではないので、シアワセを感じられないから。

将棋でもトランプでもジャンケンでも、野球でもサッカーでも、何でもいいのですが、何かをして遊ぶとき、一人だけで遊ぶのであれば、特にルールはなくてもいいでしょう。

しかし、誰かと一緒に遊ぶ場合には、何らかのお互いが共有できるルールがないとゲームが成立しません

ゲームが成立しなければ楽しくないし、好き勝手なことをする相手に腹を立てることにもなりそうですが、一方で、ルールのせいで自分の自由を制限されることにも腹を立ててしまいがちです(特に自分にとって都合が悪い場合)

では、ルールに不満がある・もっと自由が欲しい、そんな時どうしますか?

①今あるルールを一時的に無視する(自分の都合が悪い時だけ勝手なルールで動く)

②みんなで意見を出し合って、より楽しめる(シアワセになれる)ルールを考える、またはお互い納得の上でルールを変更して、それに従う

③自分にとって都合のよい、自分だけが楽しめるルールに変えて、相手にそれを強要する

➃ルールなんてまったくない状態にする(それぞれが好き勝手なことをする)

他にもありそうですが、とりあえずこんなところでしょうか。

この4つの中なら②が良さそうだってことはすぐにわかりますよね。

自分の意見をきちんと伝え、相手の意見もちゃんと聞き、100%納得はできなくても、全員が70%くらいは納得できるルールを決めて、決まったルールを守る、というのがいいような気がします。

①は相手にやられたら腹が立つし、自分がやったら相手が腹を立てるだけ、つまり争いの素であってシアワセの素ではありません。

③はいわゆる独裁や圧政にも繋がる危険な考え方ですし、そこまでいかなくても、他者からすれば、単なるワガママ。自分以外はシアワセではありません。

④に至っては、もはやアナーキー・イン・ザ・UK(by Sex Pistols)状態。無法地帯でサバイブするのが楽しい、という人(そんな人がいるのかわかりませんが)以外誰もシアワセになれません。

上記の将棋の場合でも、負けそうになってからルールを無視して駒を動かしたから険悪になるわけで、始める前に予め、この駒はこう動かしてもいいことにしようよ!→OK!となって、お互い納得の上であれば、険悪なムードにはならなかったのではないでしょうか。


「ルール=不自由」に不満があるとき、②がベスト(少なくともベター)であることはすぐわかるものの、実際には①や③のようにしてしまう人は多いのではないでしょうか?

例えば、自宅で仕事をしたい(勤務時間の制約なしに空き時間を使って仕事をする)、あるいは、帰社せずにカフェで作業をしたい、等の「自由な(効率的な)働き方」を希望する場合。

「自由」に働く、といっても、なんでもかんでも自分の思うがまま、とはいきません。「自由」に働くためには、「それを可能にし、維持するための、他者と共有できる」、それなりの「ルール=不自由」が必要なのは言うまでもないことです。

この場合、私物スマホは仕事に使わない・データは必ず暗号化する・公衆Wi-Fiへの接続禁止、等々のルールを定め、共通理解とし、守る必要があります。

この「ルール=不自由」がないと仕事が成立しなくなり、結果的に「自由」を得られなくなるかもしれませんが、「面倒くさい」「効率が悪い」等の理由(自分だけの都合)を並べて、ルールを無視する(私物スマホを使う・データを暗号化しない・どんなWi-Fiにも繋いでしまう等)……なんてことありませんか?

なんらかの社会(組織)で他者と共存している以上、あらゆる局面で「ルール=不自由」と「自分の求める自由」は衝突します。

そんな時には、お互い納得できる程度の多少の不自由さを内包した自由を得られる状態」にしていくべきですよね。

SDGsが掲げる目標も、世界のどこかで起きている紛争も、国会で議論されている法改正も、社内で行われている会議も、子ども同士の遊びも、この「多少の不自由さを内包した自由」を調整する場(機能)であるはずです。

そして、本来であれば、「多少の」不自由さを持って生きている、声の大きな人たち(権力のある人、立場が上の人)が積極的に、「多数の」不自由さを抱えて生きている、声の小さな人たちを少しでも自由にしてあげるために調整する場でないといけないはず(なのですが、現実はというと……)。


まとめると、

“誰一人取り残されることなく自由である”ためには、特定の人が、自分たちの都合を優先したルールでその他の人たちの自由を制限するべきではないし、私のようなその他大勢は、「自分の求める自由」に近づけるように要求することを諦めてはいけないですが、その際に、「多少の不自由」はお互い様として許容することも忘れてはいけないですね、と思ったのでした。

多少の不自由さに改善の余地があるのなら、双方合意できる範囲で改善していければ、もっとよい環境を構築できるはず。その際に、「自分の自由」を相手に押し付けない(強要しない)こと。それが持続可能な社会ということではないでしょうか。

そんな私の脳内Spotifyは、the Monkeesの“I wanna be free”を激プッシュしてきます。

甘美なバラードで、モンキーズの中でも(特に日本で)人気の曲で、私も中学生くらいの時から聴いています(リアルタイム世代ではないですよ、念のため)が、“自由でいたい”とかいいながら、相手にあれこれ望んでしまう、なんとも身勝手な歌詞だということをだいぶ後で知りました。

この歌の主人公も「自由になりたい」なんていいながら「多少の不自由さ」の中でシアワセなんじゃないかな?と思うのでした。

因みに、キャッチ画像の「自由の女神」は“The Stature of Liberty”。

LibertyもFree(Freedom)も、日本語では「自由」ですが、Libertyは他者の抑圧などから勝ち得た自由(能動的自由)を指し、Free(Freedom)は生まれながらにして得ている自由(受動的自由)を指すので、同じものではありません。

持続可能な社会には、どちらの自由も確保される必要があると思いますが、はたして、今の私たちは本当にどちらの自由も得ているでしょうか??

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