引用:松尾芭蕉『奥の細道』序文
とうとう師走こと12月。月1で持ち回りのブログも2020年納めと相成りました。
皆さま、新しい年を迎える準備は順調でしょうか?
激動の2020年、色々なことが変わりましたが「風物詩」を見聞きすると時節を感じるあたり、今まで継がれてきた暮らしと文化は偉大です。
テレビCM等で年賀状関連のものを見ることが増えました。
マルワでも、年末挨拶状の準備が佳境です(印刷は終わりました)。
メールやSNS、人付き合いの仕方の変化もあり、往年に比べれば年賀状の枚数自体は減少傾向にあるそうですが、手元に届くと個人的には嬉しいもの。
近しい人に送るための自宅用も早く用意しなければ、と少し焦っている所です。
中学生の頃、古典で習ったころには深く感じることもなかった標題の文ですが、最近は何となく、何となく分かる気がして良いやら悪いやら。
今回のブログを書くにあたって、ネタを探している時にふと思い。出したので引っ張ってきたのですが、やはり授業で暗唱する課題があったものは頭に残りやすいのでしょうか?
「声に出して読みたい日本語」ではないですが、心に残るフレーズ、というのは得てして響きが良い様に思います。
(古典で記憶に残る代表は、「祇園精舎」と「春はあけぼの」「徒然なるままに」「いづれの御時にか」あたりかと思いますが、私の学年では当時、『敦盛』人気が「かいてんげる」の響きの物珍しさからか高かったです。普通に血腥い場面なんですけど。)
響きが良い、というのは、韻だとか語感だとか、そういった様々なファクターから成り立っていて、それは技巧技術だったりセンスだったりによって成り立っているわけです。
だからこその名文、という必要条件的なものなのでしょうが、本来「本を読む、文を読む」という行為は、発声を伴うものだった、ということが大きい様に思います。
今でこそ本は黙って読むことが殆どで、「音読」なんてそれこそ授業や課題位でしょうが、「黙読」がスタンダードになったのは、少なくても日本では近代のことです。
(昔は何でも声に出して読んでいたから、時代劇で屋根裏に潜んだ間者が密書の内容を知ることができるのは可笑しくない、ということなのかもしれません。作劇上、今の感覚に合わせて声に出していないだけで。子どもの頃は、忍者流石に目が良すぎないか?と思っていましたが。)
ということは「今」のスタンダードがどうであれ、日本語という言語が声に出すことを前提にして培われてきたのなら、声に出すことを考えて作文するのが適切なのでは、と近頃思うのです。そうすれば読点が多くなりすぎることも、やたら一文が長くなることも無いのかも……反省ですが。
逆に読む時に声に出すようにすれば、少なくとも目に飛び込んできたワンフレーズだけに引っ掛かる、なんて事故は減るかもしれません。
SNSだとかインタビュー記事や報道なんかで炎上騒ぎが起きて、それに対するコメントを見ると、ちらほら文脈と違う読み取り方をして勝手に憤っている場面に遭遇します。
遍く人に理解してもらうことは凡そ不可能ですが、できるだけ誤解を生みにくい伝え方や表現を意識して生きたいとこの頃思います。
そして声に出して読んでも、自分や相手を不愉快にさせない発信ができたらいいな、とも。
来年は不満や不安ではなくて、感謝や思いやりだとか未来への明るい展望だとか、元気になれる言葉があふれる年になれば良いなと願っています。
ほんの少し気が早いですが。
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