最近、往年の「名作」映画がテレビ放映されたり、劇場でリバイバル上映されたりして、改めてあるいは初めて触れる機会が多くあります。
動画配信サービスの隆盛もあってアクセスが楽なこの頃ですが、量が膨大過ぎて意識的に探しに行かないと古めの「名作」まで辿り着けない現状では、多くの目に触れる、という意味ではテレビはまだ強いですね。
リアルタイムで話題を共有する、という意味でも。
私も映画は好きなので、気になったタイトルの時は観ています。
(最近では「エジソンズ・ゲーム」が面白かったです。
発明家エジソンを軸にしたアメリカの電力送電システムを巡る戦いの話。
ストーリーも服飾も良かったし、歴史的事実を調べたくなりました。
演出的に劇場で観るとより良い作品なので、気になった方は是非)
そうすると往年の「名作」では、今では絶対にできない表現・描き方にしばしば気付くことがあります。
ジェンダー問題、LGBTに関わること、人種的なこと……差別に繋がること。
運動の拡がりに伴い、「名作」の内容/描写が差別の歴史を誤認させるとして、動画サイトからの一時取り下げも話題になりました。
結局その作品は、差別に関わる描写があることや歴史的事実を映画の冒頭で表明した上で配信が再開されたそうですが、個人的には適切な対処だったと思います。
あらゆる創造物が「人間」の内から産み出される以上、差別/区別の意識からは逃れるのは難しいでしょうし、だからこそ他者の目と「議論」が次に進むためには必要不可欠でしょう。
多くの人は差別/区別を無意識の内に行い、自分とは異なる立場について想定することは難しいものです、知らないと。
何が正解かはともかく、「そういう視点」があることを知って初めて気付けるもの、ばかりの世界ではないでしょうか。
映画の内容について注釈をつける行為は日本ではレーディングに関わる場合(「暴力的な表現が~」等)くらいですが、書籍なんかでは新たに復刊された時などに見るようになった印象です。
現代では問題と認識されているものを取り下げて隠してしまえば、問題があった(/ある)こと自体を無かったことにしてしまう。
問題は問題として、差別は差別として、歴史的事実と向き合わないことには、学びも前進もない。忘れてはいけない視点だと思います。
長々とこね回しましたが、「今」と「昔」の意識のギャップの分、人や社会が変化したということだよなとしみじみ感じた、ということが今回の要点です。
ですが、目紛るましく変化する情報社会において、「昔」になる時間はどんどん短くなっているとも感じます。
一年前に映画館で鑑賞した時には、「こんなにモヤモヤしないなんて素晴らしい映画だ!」と思った作品を改めて観たら(粗探しでなく)気になる点が出てきたり。
単に作品の解像度が上がったとか、落ち着いて客観的に観られた、というだけではないはずです。
特に映画なんて、多くの人が携わる巨大プロジェクトでは、「新たな価値観の反映」が顕著だからかと思いますが、世の中も、鑑賞する「私」もどんどん変化している、ということなんでしょう。
世の中のこと、世界のこと、どんな立場や環境の人がいて、様々な考え方や視点があること。
それを忘れずにアンテナを高くして、キャッチしていかなければいけない、という自戒と反省です。
夢中になって勢いに乗っていると、しばしば忘れてしまうので。
とはいえ、私自身は趣味嗜好の関係で映画は基本的に洋画(アクション系)しか殆ど観ない(観れない)ので、アンテナの角度と範囲も頑張らなければいけないな、と思うのですが。
(個人的な意見ですが、最近気になっていることが、
「未来テクノロジーを扱うファンタジー」と
「SF(サイエンスフィクション)」が
同じ扱いを受けることが増えている気がすること。
私が単にSFポイントを読み取れていないだけ……?
自分の洞察力に自信があるわけではないので、モヤモヤしているだけなのですが。
それはそれとして楽しい/面白いものは実際、楽しい/面白いので好きだし観ます。)
子どもの頃と感想が違う。
前に観た時はあんなに楽しかったのに、今観るとモヤモヤする……。
「大人になる」って、こういうことなのかも。
小学生のことに今の自分の年齢くらいの「大人」に抱いていた印象とのギャップに、そんなことを思います。
自分の考えに基づいて、きちんと判断できる「大人」にならなくちゃ。
最近の様々な報道に接する度に感じます。
先ずは情報を発信することに携わる者として、誠実に、正確に、仕事に励むところから。
怒涛の2020年、後半も頑張ります。
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