原発事故から1年が間もなく経過します。残念なことに地元に帰宅できない方が多く、事故収束まで気の遠くなるような時間がかかると聞くと関係する住民の方の苦労がはかり知れません。
事故以来、責任を巡って政府、東電等のやり取りがずっと続いています。しかし一向にらちが明かない状況に加えて、会議の議事録が残っていない失態を聞くと「責任」と言う言葉の軽さを感じてしまいます。
先日テレビで「責任」という事に対する日本人の受け止め方を論じていました。我々日本人は責任の所在を明確にしないといいます。確かに今回の原発事故も、東電が悪いのは当然として、政府もだ、いや敷いては容認した国民だ、もっと言っちゃえば電気を使っている我々にも原因が…。
こんなことを言っているうちに「責任」と言う言葉が薄くなってしまうと…。確かに「和」を重んじる我々日本人ですが、この和と言う言葉の破棄違いが気が付けば責任がどこかに行ってしまったという感じがしてなりません。
和を重んじるのは日本人の長所であり、協調という言葉は日本人にぴたりと当てはまる表現です。しかしこの言葉に過度に反応し過ぎてしまうと、「あまり過度に言って傷つけないか…」という事にならないかと感じます。
ミスをしたらきちんと責任を取る、これが本来の姿ですが、「誰も好きでミスしたわけではない…」というおかしな感情になってしまうと、本来取るべき対処さえおかしくなってしまいます。
自社レベルの視点で考えた場合、こうした局面に陥る危険があります。もちろん会社で起こるすべては社長の責任ですが、ひとつ間違えると社員同士で同情という感情が入ることで、ミスしても当事者意識が薄れてしまう可能性があります。
幸い当社ではそうした社員はいませんが、「責任」という言葉の重みをしっかりと受け止める風土を普段から作る事が必要だと感じています。
それにしても先の原発事故、「電気を使っている我々にも原因」って言葉が出ちゃいそうだという危惧、あながち言い過ぎではないと思うのですが…。
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