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言葉のやり取りと表情を注視…

いじめ被害の報告が過去最高という記事を目にしました。報告があがった要因は大津のいじめによる自殺の報道だといわれています。一方でこの数字がまだ氷山の一角だとも。
その理由はラインの登場。ラインはグループ化できるだけに「無視をしよう」と呼びかけると簡単に行動化できてしまうそうです。やり取りが気軽にできるからこそ使い方を間違えると厄介な伝達手段となってしまいます。
顔が見えないだけにとても陰湿。自身が教職に身を置いていたときは、生徒、児童の表情を読み取ればなんとなく兆候が掴めましたが、今は表面化しないだけにたちが悪いと。これって果たして子供達だけの問題かというと、オトナの世界でも同じだと思います。
私が今の仕事に転職したとき、数年間多くの研修に出かけました。その時によく耳にしたのは「部下への○○」「明るい職場づくり」といったタイトルの研修。「コミュニケーション」という言葉をあまり研修タイトルで目にしなかったように感じます。
「コミュニケーション研修」という名前を聞くようになったのはここ十年ぐらいではないかと思います。この言葉すでに当たり前のように使っていますが、この言葉を使うと何か特別な事のように感じてしまうのは私だけでしょうか。
先のいじめのようなものは子供達だけの世界ではないと思います。いやっ、大人の方がより陰湿なような気さえします。子供と違って表面を取り繕う事が出来てしまいますから…。
当社は「全員参加」をキーワードにチームワークを最優先にしています。たとえ優秀な社員であってもコミュニケーションがとれない人は仲間にはなれないと思っています。もちろんそんな見下すような気持ちはありませんが、事実そうした社員は退社してしまいます。
メールでの伝達がなかなか徹底しないもどかしさを感じつつ、一方でこうしたアナログの風土だからこそ表情を見ることができる「人間らしさ」があるのだと思っています。こうしてみていくと、情報の効率化と人としての温かみは相反するのかもしれませんね。
少なくとも当社での私は、社員間のちょっとした言葉のやり取りや社員の表情をいつも注意しています。それが経営トップの務めだと思っていますので。
だからこそ、ちょっとした言葉のやり取りや社員の表情をいつも注意しています。コミュニケーションという言葉が何か特別なものの響きがあります。この言葉がかえって伝達手段を誤った方向にしているのではないかと…。


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